『国防軍犯罪展』(その展示物所収のカタログ本表紙)
2002年1月6日
Verbrechen der Wehrmacht. Dimensionen des Vernichtungskrieges 1941-1944.
「国防軍の犯罪 絶滅戦争1941−1944の諸次元」展を千葉大の国際関係史・国際政治史研究者・石田憲さんと見に行った。
石田さんにわたしの写真を取ってもらった。背景は「戦争と法(Krieg und Recht)」の説明掲示。
朝10時前に会場についたら、すでに5メートルくらい人が並んでいた。温度は零度くらいだったが雨模様。日曜日。それにもかかわらず、しだいに列は長くなっていた。
展示物は、今回は文書・ドキュメント類がほとんどである。にもかかわらず、訪問者はそれらを熱心に読んでいた。
たいしたものだ。
2001年9月11日の世界貿易センター破壊とその後のアフガニスタン攻撃が高い関心の背後にあったであろう。
歴史資料展示会は2001年11月28日からのもので、2002年1月13日までである。実にいい時に見に行くことができた。めぐり合わせに感謝。
この展示会は、ヴァンゼー記念館とハンブルク社会研究所の共催だった。
カタログは1月末に、ハンブルク社会研究所から出版される。約八〇〇ページとかで、発注した。
1941年―1944年の対ソ戦争は「普通の意味での戦争ではない」。「絶滅戦争だ。」
ソ連の民衆の食糧不足・大量飢餓・餓死(食料戦)は、戦争直前に予定に入れられていたことだが、実際に、ソ連の激しい抵抗で総力戦の泥沼に入りこむことで現実のものとなった。
レニングラード包囲は1000日のながきに渡ることになる。レニングラード市民の餓死は大量に上った。まさに41年10月以降、レニングラード市民に対する飢餓戦略が始まった。
中部ハリコフを巡る闘い。
長大な戦線、450万人のソ連軍の反撃、それに呼応するドイツ軍背後のパルチザン・・・パルチザン戦争。
ユダヤ人大衆は後方地域ではパルチザンとみなされて、射殺されることになる。“Der Jude ist Partisan”.レニングラードへの補給路で敵対する双方にとって死活の重要性を持つ白ロシア、その首都ミンスク。
ユダヤ人は迫害、殲滅の対象だが、占領下のスラヴ人はドイツの戦時経済のための労働力として徴募。強制連行。「東方労働者」の呼称。
展示会はかつてのベルリンのユダヤ人街で開催されていた。訪問は2002年1月6日(日曜日)午前10時過ぎから1時頃まで。
その後、シナゴーグそばのユダヤ系レストランで石田さんと食事。石田さんはレストランガイドなどをみながら、おいしい店を探すのを得意としており、夏休みのときにはエスニック料理の店(インドネシア料理、タイ料理など)につれていってもらった。
ユダヤ人街区の中心は、ユダヤ教の教会シナゴーグである。ここは統一前まで東ベルリン地区だった。近くにはフンボルト大学(ベルリン大学、これも統一前は東ドイツの大学)の客員教授用の寮がある。ケルブレ教授の紹介で数年前に二週間ほど宿泊した。
このシナゴーグは、東ドイツ崩壊後再建された。(後方に、旧東ドイツ時代、東ベルリンの象徴だったテレビ塔が見える)
現在のイスラエル・パレスチナ紛争の影響もあり、シナゴーグの前にはいつも装甲自動車、パトカーがあり、警察官が見張っている。